2009-01-01から1年間の記事一覧

長岩城史跡案内所(24)

今日、問注所資料館の平川館長の元を訪れてきた。 資料館を訪れる前に、葛篭(つづら)棚田へ回ってみたが、 新川地区では、昨日より“彼岸花めぐり&ばさら祭”が、 開催されており、早朝よりカメラマン達が、沢山訪れていた。 開花状況は、まだ五分咲程度であ…

うきは彼岸花&ばさら祭

9月19日(土)~9月23日(水)まで、新川(にいかわ)地区の棚田にて開催されます。 (http://www.city.ukiha.fukuoka.jp/hp/page000000100/hpg000000053.htm) “葛篭(つづら)棚田”は、日本棚田百選にも選ばれた所で、 畦道に咲く30万本の彼岸花と、黄金色の…

甘木にある国境石

甘木I.C.近くR500“東田”の信号より西へ300M、 川沿いを南へ300M、馬田公民館にある。 従是 北東 筑前国 従是 南西 筑後国 と書いてある。 下方部で折れていて、補修してある。 又、一面ではなく、二面にそれぞれ書いてあるのも、珍しい。

天領日田①

先日、日田市豆田町へ行って来た。 日田は徳川幕府時代の天領地として、栄えた地であった事は知っていたが、 それ以前の豊臣秀吉の時代にも、蔵入地(直轄地)であり、 繁栄していたそうである。 順次紹介していく。 写真は豆田の町並みである。

小郡市にある郡境石

小郡市御原小学校近く、県道14号線“古飯(ふるえ)”の信号より 南へ750Mの所にある。 北 御原郡 従是 北四百六間 古飯村下場 南 御井郡 と書いてある。 実際の郡境ではなく、控えられた所にあるのも珍しい。

安見ヶ城山③(最終回)

この地では、永禄十年(1567)九月三日、 大友方の大将・戸次鑑連(後の立花道雪)と、秋月種実との合戦が行われた。 種実は、戸次氏の本陣に急襲をかけ、戸次鑑連の弟や重臣達をことごとく戦死させた。 又、問注所氏の一族郎党からも、50余名の戦死者を出…

安見ヶ城山②

A.M.8:00 R386“普及センター前”信号を出発。 A.M.8:45 大平山山頂に到着。 A.M.9:00 大平山山頂を出発。 A.M.9:15 安見ヶ城山山頂に到着。 A.M.9:45 出発点へ到着。 夏場の登山である為、夏草やくもの巣に、 悩まされながら、突き進んでいった。 里山である…

安見ヶ城山①

昨日、朝倉市持丸・柿原にある、大平山・安見ヶ城山に行ってきた。 それぞれ、ピークは315M・300Mであり、尾根続きで気軽に登れる里山である。 大平山は今年の4月に、西鉄のレッツハイクで訪れた山である。 http://blogs.yahoo.co.jp/watamushi5/5241…

鳥栖市にある追分石②

R3“姫方”の信号より西へ約800M、セブンイレブンの手間を南へ約300M、 久光製薬の正門の南側にある。(鳥栖市田代外町571番地) 右 さか 左 くるめ道 と書いてある。 田代宿では、江戸時代商業が発展し、市が立って、野菜・茶・紙など様々なものが売買…

鳥栖市にある追分石①

R3“姫方”の信号より西へ300M、交差点を北へ150M 吉松産婦人科の近くにある。(鳥栖市田代昌町28番地) 右 ひこ山 左 こくら、はかた と書いてある。 長崎街道の田代宿は、肥前対州領で、対馬藩の飛び地であった。 ひらがな交じりで、綺麗な文字である。

筑紫野市原田の追分石

筑紫野市原田旧R3“原田局前”の信号より西へ50M、 “筑紫神社前”の信号、鳥居の足元にある。 左 天満宮 参詣道 と書いてある。(http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/70.html#1) 文久4年(1864)のものであり、その頃さいふ詣りが、 盛んであったとい…

御花⑨(最終回)

御花を訪れた帰路に、セイロ蒸しを食べてきた。 R208“矢加部”の交差点より東へ100Mの所にある“日本料理 山田屋 http://www.ensen24.jp/unagi/unagi_03.htm”である。 セイロ蒸し・肝吸い・ポッキー(骨のカラアゲ)・漬物のセットコースを注文した。 うなぎ…

御花⑧

御花を訪れて残念だった事は、問注所氏に関しての、資料が展示されてなかった事である。 文禄四年(1595)大友家改易後、慶長三年(1598)十二月に、 問注所政連は所領を失って、長岩城を開城した。 関が原の合戦を経て、その後立花宗茂が改易となり、 …

太宰府市にある道標石

太宰府市県道R112(旧R3)“関屋”の信号より西へ50Mのところにある。 二基あり、 天満宮 東 従是 二十五丁 享和二年 是ヨリひがしさいふ参拝道 と書いてある。 一基は、元禄四年(1691)のものであり、 その頃よりさいふ詣りが、盛んであったということである。

御花⑦

浮羽町史によれば、豊臣秀吉の征韓の役の時、問注所統景は、手勢800余騎を率い、 毛利家の先隊に従い渡海し、明兵としばしば戦い武功をたてた。 文禄二年(1593)九月二日赤国牧司の城を攻めたが、 明の劉綖(りゅうえん)大軍をもって来援したので、毛利…

御花⑥

松涛園の横に、立花家伝来の大名道具の展示をした、 御花資料館がある。http://www.ohana.co.jp/kura.html そこには、藩祖立花宗茂、以来400年以上にわたって、 受け継がれてきた、収蔵品約3000点が継承されているそうだ。 今年1月には、福岡県立美術館の特…

久留米市大橋町にある郡境石

R210“大橋三差路”の信号を北へ500M、“大橋歴史公園”を過ぎて、 “大橋”を渡りすぐ右折して200M、右側の巨瀬川堤防敷にある。 東 竹野郡 西 山本郡 と書いてある。 他のものと比べて、とても小さい字である。 江戸時代、久留米から日田へ向かう日田街道は二本…

御花⑤

写真は松涛園に面した、大広間廊下の鴨居に掛けられている、 「金箔押桃形兜(きんぱくおしももなりかぶと)」である。 桃の形をかたどった兜は、戦国時代に多く用いられた形であるが、 立花家では鉄に金箔をほどこし、239頭が今でも残っているという事であ…

御花④

立花宗茂は、文禄の役で朝鮮へ出兵、激戦のあった碧蹄館の戦いでは、 一番隊として明の大軍を破り、その名をとどろかせた。 秀吉没後の関が原の合戦では、秀吉の忠義のため、石田三成率いる西軍に属した。 写真は、樹齢600年といはれている松ノ木と、そて…

うきは市にある郡境石

R210田主丸鷹取“樋ノ口”の交差点より、北東へ100Mの所にある。 東 生葉郡 分界 西 竹野郡 と書いてある。 うきは市教育委員会から頂いた資料によると、うきは市内に郡境石は全部で5基あるらしいが、 現在、その場所が確認されているのは、ここのものと、 千…

御花③

立花道雪と仁志との間には、一人娘の“誾千代(ぎんちよ)”がいた。 この“誾千代(ぎんちよ)”と四王寺山の岩屋城城主、高橋紹運(たかはしじょううん) の長男“千熊丸”〔後の総虎(むねとら)〕とは、後々夫婦となっていく。 後の、立花宗茂である。 写真は、柳川川…

長岩城史跡案内所(23)

今日、長岩城史跡案内所の平川館長の元へ訪れてきた。 約二時間程様々な事を話した。 問注所家が、問注所を姓として名のれたのは、鎌倉幕府が1333年に滅亡して、 裁判所の業務としての“問注所”が終止されたからだ、 だろうと言うような事を話した。 又、…

杷木町にある国境石③

R386沿い杷木町と日田市との県境付近にある、阿蘇神社の入り口付近にある。 従是 西北 筑前領 谷川半境 と書いてある。 豊後国と筑前国の境の国境石である。 この石は、“杷木町にある国境石①”と同じ内容が書いてある。 書体も似ているようだが、同じ人の作で…

御花②

問注所家と立花家の両家のつながりは、 1567年におきた、二度目の侍島の合戦 (http://blogs.yahoo.co.jp/watamushi5/41799120.html) で戦死した、鑑豊の娘“仁志”と、戸次鑑連(べっきあきつら 後の立花道雪) との再婚によって、より深い縁となっていった。…

御花①

柳川御花にいって来た。 立花藩(筑後十三万石)は問注所政連が、 改易の後、柳河藩士となって、 仕えたところである。 順次紹介する。

長岩城史跡案内所(22)

画像は、鎌倉幕府最後の閣僚名簿である。 問注所執事に三善貞連が名を連ねている。 三善貞連は第十代・十二代に問注所執事であった。 1333年は“いちみさんざん北条氏の滅亡”で、 鎌倉幕府が終焉した年である。 尚、今回史跡案内所は6月20日~7月9日…

杷木町にある国境石②

朝倉市の道の駅、バサロの東隣の民間会社の敷地内にある国境石。 志波村抱 とかいてあるが、あとは読めない。 控石であると考えてあるらしい。

杷木町にある国境石①

杷木I.C.入り口の西側、R386沿い旧こども未来館はきの敷地内にある。 従是 西北 筑前領 谷川半境 と書いてある。 豊後国と筑前国の境の国境石である。 “谷川”と書いてあるのは、境谷川ということらしいが、 “半”と書いてあるのは、川の中央が境という事なの…

“名将の采配”・“熱中時間”

T.V.番組の紹介をします。 NHK総合の、 “名将の采配”(火曜日24:10~24:45http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20081008_doc.html)と “熱中時間”(水曜日22:45~23:00http://www.nhk.or.jp/nj/index.html)という番組である。 “名将の采配”の前回は、毛利元就V…

うきは市にある県界標

R210沿い、うきは市と日田市の境、日田市に向かって右側にある県界標。 郡境石・国境石ではなく、比較的新しく昭和 3年 3月のものである。 至 日田町 九粁 百二十四米突 至 耶馬溪・羅漢寺 五十二粁四百七十八米突 至 中津町 六十二粁五百四十九米突 至 吉井…