2008-01-01から1年間の記事一覧

さくらと陣跡ウォーク③

当時、名護屋城の周囲3kmの圏内には、約120の陣屋があった。 その中でも、徳川家康の陣は2ヶ所あったそうである。 勢力を分散させる為にそうさせたとも考えられている。 碑には、“竹の丸跡”と刻んである。

さくらと陣跡ウォーク②

当日は、大雨・強風のあいにくの天候にも関わらず、参加者は200名近くにのぼった。 悪天候であったのが大変残念であったが、TV局の取材もあったようだ。 写真はAコースのコース図と、スタート地点近くに鎮座している、 御地蔵様である。微笑んである表情…

さくらと陣跡ウォーク①

少し、前の事であるが、今年3月30日(日)に唐津市鎮西町で 行われた名護屋城史跡ウォークラリーを順次紹介する。 http://www.city.karatsu.lg.jp/article.php?articleid=04818510012006217281027409698 当日は悪天候にもかかわらず、多数の方が参加された…

長岩城史跡案内所⑮

今日、長岩城史跡案内所の平川館長の元を訪れてきた。 先日、大川から問註所さんが訪れられたとか、地域の災害復旧工事をボランティアでされたとか、 約二時間半程話をした。 大川からの問註所さんは、柳川の問註所宗家の甥にあたる方だそうだ。 しかし、問…

朝倉町にある国境石

従是 西北 筑前国 文化12年乙亥三月 上座郡 長渕村抱 と書いてある。 筑後川の下流で埋まっていたものがみつかり、現在は旧朝倉町役場敷地内に設置してある。 埋まっていた為だろうか、文字がすごく鮮明である。 高さが約2M程あり、今まで見たものの中で…

その時歴史が動いた

水曜日午後10:00より、NHKで“その時歴史が動いた”という番組が放送されている。 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_12.html 次回12月3日は大友宗麟が登場する。 問注所家が、心変わりすることなく使えた、大友家の頭首である。

長岩城史跡案内所⑭

先日、長岩城史跡案内所の平川館長の元へ訪れた時、 三善康信以前から現在に至る、平川家の家系図を記載するよう依頼されたので、 載せておく。 最後にある源次郎氏が、平川館長の祖父である。

九重自然観察会2008

昨日、九重の長者原ビジターセンターで開催されている自然観察会に参加してきた。 観察会はA.M.10:00集合で、約二時間のタデ原湿原を散策するコースだ。 長者原付近は紅葉も終わり、参加者は少なかった。 しかし、来年の春に向けて準備している草木の様子が…

長岩城史跡案内所⑬

昨日、平川館長の所へ伺ってきた。 9月に行われた、つづら棚田ウオーキングの詳細についての話を行った。 又、来年に向けての反省点や資料の展示方法等を、一時間ほど話し合った。 長岩城と問注所氏について、少しでも興味を持つ人が増えると良いなという事…

つづら棚田ウオーキング④(最終回)

少し下って、長岩城史跡案内所の平川館長の所へも立ち寄ってみた。 案内所では、クラッシック・カーも展示されている。写真はその中の一枚である。 暫く、入口付近で館長と立ち話をしていると、ウオーキングの参加者の方々が、次々に集まってきた。 長岩城や…

吉井町にある国境石

吉井中央公民館にある3基の国境石。 本来どこにあったものかは、不明だが、スポーツ・アイランドから発見されたものらしい。 南 従是 筑前○ 東 西 従是 筑後領 南 と書いてある。 筑後川が氾濫した時に、流されてきたものだろうか?

つづら棚田ウオーキング③

棚田を後にし、これからは6kmの下り坂である。 彼岸花は、もうほとんど終わってしまっていたが、すれ違う車は後を絶たない。 暫く下り、本コースから少し外れて、長岩城跡の木道のコースを廻ってみた。 こちらのコースを廻っている方も、私のほかに数名お…

つづら棚田ウォーキング②

つづら棚田で彼岸花巡りを行うには、時期的に一週間程遅いようであった。 しかし、その一週間前といえば、“彼岸花めぐり&ばさら祭”の開催されていた時期の為、 交通量が多くウォーキングには、不向きの時期であっただろう。 車輌と歩行者との動線が、うまく…

つづら棚田ウォーキング①

9月28日(日)、つづら棚田ウォーキングに参加してきた。 山間地区の為、ウォーキングは企画しにくかった為か、 つづら棚田地区でのウォークラリーは、初めてではないだろうか? しかし、参加者は予想以上に多く700名を越えていたようである。 JRうきは駅…

長岩城史跡案内所⑫

9月21日(日)9:00過ぎ、平川館長の所へ訪れてきた。 8月3日(日)勝楽寺の施餓鬼の件、柳川の問注所宗家・町野家・平川家が参列された事などを、 伝えてきた。来年も時間が合えば、参列したいと思う。 大生寺の住職さんの話では、関係者でない方も、どしど…

原鶴の合戦④(最終回)

秋月方の三奈木弥平次に打たれた、大友・問注所方の、野上上野入道一閑(かずより)は、 豊後より、弟が出向いてきて出家し、寺を建立し供養された。 それが、うきは市吉井町にある、淨満寺だそうである。 430年余経った今でも、現存しているのがすごい。 …

大刀洗町にある国境石③

大刀洗町中央公民館前にある、国境石・郡境石。 国境石2基・郡境石1基がある。 国境石は稲数、郡境石は冨多にあったものである。 南 筑後国 従是 北 筑前国 西北筑後国 従是 東 筑前国 南 御井郡境 従是 北 御原郡 と書いてある。 この地域は、江戸時代に…

原鶴の合戦③

R386道の駅バサロから北東へ2Km行った所にある、一本木地蔵。 以前は千人塚とも呼ばれていた。 原鶴の合戦で戦死し、放置されていた、大友・問注所方、秋月方の戦死者を一箇所にまとめて、 葬ったと、いわれている。 死んでしまったら、敵・味方関係なく、手…

元寇資料館⑦(最終回)

元寇資料館に隣接する、東公園にある亀山上皇銅像。 亀山上皇は、“我が身をもって国難に代わらん”と、 “敵国降伏”を祈願された。 最後に、元寇資料が見られる箇所を、ピックアップしておく。 ★兜 → 愛媛県大山祗神社 ...... 東京都 穴八幡宮 ..... 鳥取県渡…

大刀洗町にある国境石②

北 従是 筑前国 東 と書いてある。 R500沿いの甘木鉄道山隈駅入口の信号付近、“7-11”の近くにある。 文字は、大分、風化されて読みにくく、なっている。

元寇資料館⑥

蒙古襲来絵図。 文永の役の時、博多を焼き尽くした元軍は、内地の太宰府近くまで、進軍して行った。 しかし、そこには元軍の兵士の討ち取られた首が、水城の堤防にさらされてあった。 そのことと、見知らぬ土地で夜を向かえ、夜襲を恐れた為、撤退していった…

大刀洗町にある国境石①

大刀洗町、R322陣内交差点東側にある。 従是 西北 筑前国 従是 南 筑後国 と書いてある。 私有地の一画のようであるが、国道の拡張時に移設されたのであろうか?

原鶴の合戦②

1581年筑後川を挟んで、秋月・星野VS大友方との間に、大規模な激戦が行われた。 問注所家で秋月方に味方した、鑑景(あきかげ)を案内者として、問注所家の内紛となった。 ‘筑後国史’には、‘天正9年ノ冬ヨリ、筑後国問注所治部少輔、秋月二興シケル故秋月ヵ人…

問注所家法要②

8月3日(日)、勝楽寺の施餓鬼(せがき)に出席してきた。問注所家をはじめ、 平川家・町野家・寺の建立に関わった方々等、総勢約20人の参列であった。 問注所家の先祖の供養並びに、文禄の役・慶長の役に出兵して亡くなった戦没者の供養も兼ねてあった。 供養は…

問注所家法要①

今日、8月3日(日)AM.11:00~勝楽寺にて、問注所家の法要がある。 問注所家・平川家の方々が参列されるようである。 しかし、今日は長岩城史跡案内所の平川館長は、私用の為欠席である。 私達は夫婦で、お経・お斎(おとき)と参加させて、頂くようにしている…

原鶴の合戦①

侍島の合戦から約20年後の、天正9年(1581)9月に起きた 秋月種実(あきづきたねざね)と大友方との戦い。 現在の原鶴の写真を載せておく。

侍島の合戦⑦(最終回)

“鑑豊墓印”より南西に500mの所にある、十三塚。 ‘筑紫家覚書’によると、 ‘豊後勢、散々に破軍し、逃げるを追い討ちにして、首数千三百七拾三討ち取り、 其上、侍大将星野・問注所を討ち取り~右の首数拾三に分、針摺ノ山上に埋ける。’とある。 敗れ去った、…

侍島の合戦⑥

‘浮羽町史’によれば、侍島の合戦で戦死した、頭首・問注所鑑豊の恩賞として、 問注所家は、三井郡の一部を府内より加増された。 ところで、東京の平川さんから頂いた情報によると、 この“鑑豊墓印”には、柳川の問注所さんも時々訪れて、 線香をあげてあると…

侍島の合戦⑤

侍島の合戦で戦死した、問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)の祠。 筑紫野市下見、市立下見保育所より西へ100m程の、納骨堂入口付近にある。 近隣の方々からも、手厚く守られているようである。 横にある碑には、文政8年(1825)と書いてある。 没後300年程経…

山家宿の追分石

右 肥前 太宰府・長崎 原田 左 肥後 久留米・柳川 松崎 と書いてある。 元々、JR筑前山家駅の北西500mのところに、あったと考えられている。 今は、‘ふるさと館ちくしの’に保存されているが、 そこに来る前は、農家の倉庫の基礎石として使用されていたらしい…