2009-01-01から1年間の記事一覧

長岩城史跡案内所(21)

問注所氏の先祖が、編纂に関わっていた御成敗式目は、 全文五十一条で構成されているそうだ。 この五十一条というのは、或る説によれば、 聖徳太子の“十七ヶ条憲法”の三倍に編成したと考えられているそうである。 17条 x 3倍 = 51条 というわけだ。 大…

長岩城史跡案内所⑳

今回、資料館は6月12日まで開館されている。

長岩城史跡案内所⑲

日本法制史学上、王朝時代の“律令”・鎌倉時代の“御成敗式目”・徳川幕府時代の“御定書”は、 我が国、古代法制の三本柱であるそうだ。 その三本柱の一つ“御成敗式目”に、うきはの問注所氏の祖先が係わり、 その流れを継いでいるということは、誉れ高い事である…

長岩城史跡案内所⑱

御成敗式目(貞永式目)の編纂と執筆には、 鎌倉幕府の問注所執事、三善康信の子や孫達が深く関わっていたそうである。 御成敗式目(貞永式目)の原本製作者13名の中に、 三善康俊・康連兄弟、その甥の三善倫重の3名が入っていたということだ。 その上、三善…

長岩城史跡案内所⑰

先日、長岩城史跡案内所の平川館長の元へ訪れてきた。 事前に電話で、平川館長から新しい事実の確認が取れたと、 伺っていた為、どう言った事なのか、興味深く楽しみにしていた。 それは、鎌倉より生葉郡に下向した、三善康行の2~3代前の祖先が、 “御成敗…

にしてつ レッツハイク

先日、西鉄主催の“レッツハイク 大平山コース”に参加してきた。 http://geocities.yahoo.co.jp/gl/watamushi5/ 参加者は約370名程で、参加費無料であった。 甘木公園を出発して約8km、3時間のコースであった。 大平山(315m)の隣にある、安見ヶ山(3…

福岡市博物館④(最終回)

今回は“江戸時代の福岡住宅事情”が目当てであったが、 隣のコーナーでは、“戦国時代の博多展7”が開催されていた。 それは、1550年頃大友氏が志摩郡に郡代を置いて、 郡内を統治していた事に関する展示であった。 常設展もなかなか興味深い。 帰路に長浜…

福岡市博物館③

間取り図の室名の記載の向きが、マチマチなのは何故か?と思っていたが、 室名の記載してある向きの、奥側が上座という事であるらしい。 それには、きちんと意味が在ったわけだ。

福岡市博物館②

江戸時代の街づくりは、軍事的性格を第一に、 考えられてのものであった。 頂いた資料を載せておく。

福岡市博物館①

先日、福岡市早良区の福岡市博物館へ行ってきた。 http://museum.city.fukuoka.jp/ 目的は、常設展の“江戸時代の福岡住宅事情”であった。 今まで、博物館・美術館では、特別展ばかりを、見て廻っていたが、 常設展は\200と安い上、結構楽しめる。 隣接す…

流川の桜並木 2009

うきは市流川、巨勢川沿いに約二~三km続く桜並木。 以前は、櫨蝋を採る為に植えてあった櫨並木であったが、 櫨蝋は明治時代以後、西洋ロウソクに押され、需要が徐々に少なくなっていつた。 以後、伐採され桜が植えられたものが、今に続いているらしい。 こ…

“侍島の合戦”市民歴史ゼミナール④(最終回)

この講座を通してあらためて学んだ事は、“侍島の合戦”にしても“十三塚”にしても、 異説が色々あるという事であった。 古文書や文献によって、記載してある事は様々である事も多い。 一つの文献のみで、判断するのではリスクが大きいので、 数種類の文献を、…

“侍島の合戦”市民歴史ゼミナール③

“十三塚”と言う地名は、筑前国内に11ヶ所あるらしいが、 講座では、いくさ後この戦場跡に実際1300名余の戦死者を分けて埋める事は、 できなかったのでは、ということであった。 20~30年程前までは、“筑後塚”には直径3m程の円形で、 高さ0.5…

“侍島の合戦”市民歴史ゼミナール②

昨日、筑紫野市で開催された、“侍島の合戦”市民歴史ゼミナールに参加してきた。 定員は140名であったが会場はほぼ満席で、関心の高さを感じさせられた。 割合的には、年配の方の参加が多いようであった。 講師の先生は、福岡地方史研究会の鷺山智英先生。…

肥後街道宿場を歩く

先日、くるめウスに行った時に、知ったイベントの紹介をします。

“侍島の合戦”市民歴史ゼミナール①

歴史講座の紹介をします。 3月28日(土) 13:30~15:30 筑紫野市生涯学習センターにて、 “侍島の合戦”の歴史講座が行われます。 以前、シリーズで紹介した“侍島の合戦”のゼミナールです。 http://blogs.yahoo.co.jp/watamushi5/folder/1417676.ht…

長岩城史跡案内所⑯

先日、長岩城史跡案内所の平川館長の元へ訪れてきた。 約一時間程会話した後、昨年末案内所へ少し変わった来客があったことを伺った。 その方は、“北部九州中近世城郭研究会”の筑後担当という方で、 筑後地区の城郭を、詳しく調査して廻ってある方だそうだ。…

松尾城(田籠城)⑪(最終回)

今回の松尾城の挑戦において、山道の所々に白いテープを、ケルン代わりに付けている。 次に登山される方の、目印代わりに利用してもらえると、ありがたい。 (登山コースと下山コースが多少ずれている。申し訳ありません!) 尚、山頂・山道は全て私有地である…

松尾城(田籠城)⑩

松尾城跡の麓には、“首洗い”・“軍馬の調教場”・激戦場となった“切り寄せ”が残っている。 天正11年(1583年)前後の数年間、秋月種実ら反大友軍が、小坂の井上城方面から攻め上り、 一方、問注所統景らは長岩城から駆け下り、ここが合流地点で激戦場とな…

松尾城(田籠城)⑨

平川館長から伺った話によると、松尾城跡へは時々登山する方もいるらしい。 今回は冬場の挑戦だった為、蜂や蛇などに悩まされる事はなかったが、 夏場のチャレンジは避けた方が良いだろう。 写真は、千人塚と現在千人塚が鎮座されている丘である。

松尾城(田籠城)⑧

大友宗麟VS島津義久の合戦である耳川の戦いの敗戦以後、 天正六年(1578年)~天正十一年(1583年)に至って、 筑後の大友支配の城主は、ことごとく離反して、竜造寺・秋月氏等にくみしていった。 その中にあって、問注所統景(もんちゅうじょすべかげ)は…

松尾城(田籠城)⑦

天正11年(1583年)7月20日に秋月種実・星野中務ら反大友軍が、 長岩城城下に放火して、長岩城を攻め囲んだ。 しかし、問注所統景はこれらの勢力をことごとく退けていった。 千人塚・首洗等の遺跡を残した激戦は、この頃のものであったらしい。 写真…

山城夢幻行

本の紹介をします。 「読売ファミリー」(読売新聞の購読者に毎月配られる、小冊子)の 2002年10月号~2004年3月号で連載された『近世・城物語』と、 2006年4月号~2008年3月号で連載された『倭城を訪ねて』が一冊の本にまとめられた。 私も、後半の『倭城を訪…

松尾城(田籠城)⑥

山頂から下山した後、次に千人塚を探した。 平川館長からだいたいの場所を伺っていたが、なかなか簡単には見つからなかった。 約一時間程、山中を歩き回った後、やっとの思いで千人塚を発見した。 千人塚は敵・味方全ての死者を祀った石碑である。 写真は千…

筑後川なんでも発見団流域の歴史を知ろう「江戸時代」②

今日、くるめウスであった、郷土史講座に参加してきた。 参加者は約20名程であったが、中身は深く、郷土史のすごく為になるものであった。 時代は江戸時代の後編であったが、日田・浮羽・柳川・佐賀と筑後川流域の歴史が、 興味深く語られていた。 “柳川3…

松尾城(田籠城)⑤

山頂部分は、三角点を接地する為、杉林が、一部伐採されたようである。 しかし、その後再度植林されて、現状に収まっている様である。 写真は、山頂にそびえたつ枯れた杉の木である。

筑後川なんでも発見団流域の歴史を知ろう「江戸時代」①

歴史講座の紹介をします。 1月25日(日)午後2時~4時、久留米市新合川の筑後川発見館「くるめウス」。 スライドを交えて筑後川流域の、昔の様子が語られる。 入場は無料です。問い合わせ先は0942-45-5042。 初めて参加しますが、問注所氏・…

松尾城(田籠城)④

山頂周辺は城があった為か、なだらかな台形状になっているようである。 城跡周辺には、空堀・竪堀・土塁・曲輪などの城郭遺構が、 何か残っているはずだが、詳しく調査される事もなく、 放置されているのは、実に惜しい事である。 写真は、山頂にある三角点…

松尾城(田籠城)③

天正11年(1583年)頃、問注所統景(もんちゅうじょすべかげ)が 反大友の連合軍(星野・秋月・草野)を迎え、この天険を利用して 数年間、戦い抜いた。 写真は山頂から望む、長岩城と遠景である。 植林がなければ、つづら方面の眺めは最高のようである。 当…

松尾城(田籠城)②

松尾城(田籠城)は、問注所氏長岩城の出城で、 本丸、東西30m南北9m、 二の丸、東西32m南北20mの規模であった。 写真は、登山口と、山道の途中の状況である。