2008-01-01から1年間の記事一覧

元寇資料館⑤

矢田一嘯(やだいっしょう)の‘蒙古襲来絵図’。 福岡県立美術館にて、H17.2.5~3.13の期間に出展された。 その時の出品は、元寇資料館や本佛寺からの物が多かったようだ。 これらの作品は、明治42年頃に書かれたものであるが、 今、見てきたかのように、生々し…

侍島の合戦④

侍島の合戦、再び起こる! 五ヶ山城の筑紫広門(ちくしひろかど:惟門の子)は、 古処山城の秋月種実(あきづきたねざね)と共に、再び大友義鎮(おおともよししげ:後の大友宗麟)に 反旗を翻した。 問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)はこのことを、いち早く府…

馬市の国境石

小郡I.C.より北へ五分の所にある。 従是 北 筑前国 従是 南 筑後国 と書いてある。 二つの国境石が、競い合うように建っており、筑前側のものは 二川相近(ふたがわすけちか)の書である。 アマンディの進入口の付近にある国境石(三国境石③)と、 同じ筆跡であ…

元寇資料館④

元軍の兜と鐙(あぶみ)。 鐙とは、鞍(くら)の付属品の一部で、乗馬した時、足先を引っ掛けるところ。 兜の遺品例は鎧よりも多い。当時、討ち取った相手の甲冑を、武功の証として 各地の寺社に奉納する事が流行していた。 しかし、収納場所の確保や保存のし易…

侍島の合戦③

この敗戦の後、大友義鎮(おおともよししげ・後の大友宗麟)は将軍足利義輝から、 九州探題職に任ぜられ、北部九州を支配する守護大名となっていく。 一方、侍島の合戦で勝利した筑紫惟門(ちくしこれかど)は、陣容を立て直した大友勢の攻勢にあい、 籠城で対抗…

元寇資料館③

写真は、元軍兵士の戎衣(軍服)と音で軍勢を指揮した銅鑼。 布裏の薄い鉄板で身を守る戎衣は、鎌倉武士の大鎧に比べて、 運動性に優れ集団戦法向きであった。 鎌倉武士が、一騎討ちを基本としていたのに対して、 蒙古軍は集団戦法。 一騎で出て行ったところを…

秋月街道④(最終回)

旧八丁越にある‘おおよこい茶店’と‘大日如来’。 ‘よこう’とは筑豊弁?で休憩するの意味。 大力側から秋月側へ向かう時、‘おおよこい茶店’は絶妙な位置にある。 水場も近い為、多くの旅人が、ここでよこうたのだろう。

旧八丁越にある道標石

秋月街道沿いにある道標石。 左 山 道 と書いてある。 直進は秋月街道である為、幹線道路であるが、 左の道は山道で田舎道であったという訳か? 現在では左の山道を進む事は、荒れていそうであり、勇気が要りそうだ。 道の先がどのようになっているのか、知…

秋月街道③

旧八丁越に挑戦してきた。 am6:30 R322古処山林道入り口より少し下った所にある、秋月街道の看板をスタート。 am7:00 石仏・祠が何体もある霊験あらたかな所。旅の安全祈願の為、設置されたのだろうか? am7:30 旧八丁越の山頂に到着。旧道は林道によって破…

侍島の合戦②

大友義鎮(おおともよししげ)は、大友方から毛利元就側に寝返った反逆者、筑紫惟門を征伐しようと、 総大将佐藤刑部丞(さとうぎょうぶのじょう)のもと、肥前の犬塚尚家(いぬづかひさいえ)、 筑後の星野鑑泰(ほしのあきやす)、問注所鑑晴(もんちゅうじょあきは…

三国境石④

三国境石の北側、国道3号線のポケット・パークの中にある。 従是 東筑前國 従是 西肥前國対州領 と書いてある。 二つの国境石が背中合わせに立っている。 本来、国境石の両サイドにある石との延長線が国境だったそうである。 車の通りが多い所であるが、あ…

元寇資料館②

文永の役(1274)・弘安の役(1281)の資料が展示してある。 学生時代には文永の役の年号を、‘とうになし元の船影’と語呂合わせで覚えたなぁ・・・ 写真は元軍壷と河口杭である。 河口杭は弘安の役の際、元船の進入を防ぐ為に、 河口に打ち込まれたものであると…

侍島の合戦①

永禄2年(1559)4月2日、筑前の国侍島(筑紫野市下見)における、大友義鎮(宗麟)方と、 毛利方に内応した筑紫惟門との合戦。‘九州治乱記’には‘永禄二年、 筑前国五箇山の領主筑紫右馬惟門、此二、三年、大友に攻められ山中に引き篭もりしが、今年の春、 …

元寇資料館①

福岡市博多区東公園の北側にある。 この資料館は、それまで各地に散逸していた元寇の資料を、収集して保存する為に、S61年に造られた。 その当時の武器や鎧兜、その後に書かれた元寇絵などの現物が展示してある。 6月までは土・日・祭日の開館であったが、7…

三国境石③

三国境石の北側、アマンディーの旧車両進入口にある。 従是 北筑前国 と書いてある。 これは、二川相近(ふたがわすけちか)の書であり、威風堂々としている。 筑前領内最大の国境石ということである。

秋月街道②

秋月城下から参勤交代で江戸に向かうには、秋月街道を通っていくよりも、 涙坂→白坂峠→長崎街道のコースが一般的だったらしい。 八丁越及び概ねR322に沿った秋月街道で行くほうが、短距離に思えるのだが、 長崎街道の方が近かったのだろうか? 涙坂近くには石…

三国境石②

三国境石の傍石(国境石と国境石の間を埋めるように置かれた石)。 筑前側、従是 北 筑前国 筑後側、従是 東南筑後国 とかいてある。 筑前側・筑後側・肥前側にそれぞれあったが、今は二箇所だけで肥前側の物はない。 アマンディー(旧アクアフォーレ)の建設時…

長岩城史跡案内所⑪

今日、長岩城史跡案内所を訪れた。昨日、6月21日に戻られて今回は7月8日まで開館されています。 今日は、8月に問注所の菩提寺である勝楽寺(しょうらくじ)で行われている、 問注所氏の供養について伺ってきた。 今年は8月3日(日)am.11:00~お経・おとき(食事…

三国境石①

筑紫野市美しが丘南にある、珍しい円筒形の三国(筑前・肥前・筑後)を示した国境石。 (郡境石ではない?) アマンディー(旧アクアフォーレ)、東明館小学校建設時に、長崎街道が寸断され、 今は東側の擁壁をよじ登ってからしか行けない様になっている。 貴重な…

秋月街道①

古処山登山の帰り、R322古処山林道入り口から秋月側へ下っていくと、 ‘秋月街道’の看板が目に入った。 車を止め暫く上っていくと、そこには江戸時代当時の石畳が続いていた。 ‘よくぞ、残っていた!’と頬ずりしたい気分になった。 次回は旧・新八丁越も挑戦…

勝楽寺にある問注所氏の慰霊碑

豊臣秀吉、文禄の役・慶長の役に毛利方先鋒として800余騎を率い出兵し、 戦死した問注所統景(むねかげ)らを供養してある。 勝楽寺は小坂(おさか)の柿畑の中にあるが、案内板もない為、見つけにくい所である。 地元の方に二度伺いやっとたどり着いた。 地…

朝倉市秋月街道にある道標石

女男石集落の南にある。 さいふ 右 まつさき ○是 あまき 左 ほんかう と書いてある。 元々、‘従是・・’とあったのだろうが、上部の部分が折れたのだろうか? でも反射板が耳のように見えて、可愛らしい。

長岩城史跡案内所⑩

平川館長の遠縁に当たる東京の平川さんから、メールを頂いた。 平川館長と同じように問注所一門の事を深く調べてある方で、すごく詳しい。 松尾城への散策も3度挑戦されたそうですが、まだ到達まではしておらず、今年再挑戦されるそうです。 同じような事に…

筑前町の道標石

R386弥永の信号から20m秋月方面に行ったところにある道標石。 はかた 右 道 さいふ くるめ 左 道 松崎 と書いてある。 民家の塀に沿ってあるため、なかなか見つけにくい。

大野城市の道標石

大野城市大城4丁目(太宰府I.C.近く)にある道標石。 左 うみみち 従是 右 やまえ○ と書いてある。 この道標石は、道しるべと道の神とを複合させたもの ということで、珍しいもののようだ。このようなタイプは初めて見た。 道標石の上の方にあるマークが、こ…

長岩城史跡案内所⑨

今日、長岩城史跡案内所を訪れた。 先日、平川館長と遠縁であることが分かった方(東京の平川氏)との繋がりを、 家系図で説明して頂いた。220年程遡った庄屋平川権右衛門善友氏の次男・三男の子孫に あたられるそうです。(良く分かるものなのですね!) 今日…

大野城市の郡境石

旧国道3号線(県道112号線)沿い、錦町1丁目の信号より北へ200mの所にあった郡境石。 西 那珂郡 従是 東 御笠郡 と書いてある。 破損が酷くなり、今は大野城市歴史資料展示室に移設してある。 交通量も多いところです。排気ガス・衝突等により破損も激…

長岩城史跡案内所⑧

今日、平川館長と電話で話した。 それによると、先日、館長と連絡を取り合って、遠縁であった方は、 以前に、柳川の問注所さんと、お会いになったことがあるということだった。 すごい!! 8月初旬には、うきは市の勝楽寺で問注所氏の供養が行われているそ…

長崎街道

旧冷水峠に残る長崎街道の石畳。 現在の道路は車中心の為、峠越えは直線的。 しかし江戸時代以前の街道は人馬中心の為、蛇行している。 道路の時代の変遷を感じます。 この道をオランダ商館シーボルトも通ったかと思うと、 感慨深いものがあります。(象も通…

甘木の郡境石・国境石

甘木歴史資料館の前にある郡境石・国境石 北 夜須郡 郡境石 従是 南 下座郡 従是 北 筑前国 国境石 従是 南 筑後国 と書いてある。 郡境石は元々、朝倉市水町(朝倉市役所南300m)のところにあったもので、 黒田藩と秋月黒田藩のさかいに、あったものらしい…