侍島の合戦④
侍島の合戦、再び起こる!
五ヶ山城の筑紫広門(ちくしひろかど:惟門の子)は、
古処山城の秋月種実(あきづきたねざね)と共に、再び大友義鎮(おおともよししげ:後の大友宗麟)に
反旗を翻した。
問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)はこのことを、いち早く府内に連絡しその討伐に出陣したが、
壮烈な死を遂げてしまった。
このように、筑紫氏をはじめ、秋月氏・星野氏達が大友氏に対して謀反を起こしていったのは、
大友氏が一族や譜代の家臣には、厚遇であったが、国人衆(こくじんしゅう:室町時代の在地領主で多く
の場合は、守護の家臣になっていない、その国はえぬきの武士)
には冷遇であった事が一つの原因である。
その中で、問注所氏は最後まで大友氏に忠節であった。写真は鑑豊が祀ってある墓である。
五ヶ山城の筑紫広門(ちくしひろかど:惟門の子)は、
古処山城の秋月種実(あきづきたねざね)と共に、再び大友義鎮(おおともよししげ:後の大友宗麟)に
反旗を翻した。
問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)はこのことを、いち早く府内に連絡しその討伐に出陣したが、
壮烈な死を遂げてしまった。
このように、筑紫氏をはじめ、秋月氏・星野氏達が大友氏に対して謀反を起こしていったのは、
大友氏が一族や譜代の家臣には、厚遇であったが、国人衆(こくじんしゅう:室町時代の在地領主で多く
の場合は、守護の家臣になっていない、その国はえぬきの武士)
には冷遇であった事が一つの原因である。
その中で、問注所氏は最後まで大友氏に忠節であった。写真は鑑豊が祀ってある墓である。