長岩城史跡案内所(32) -4(最終回)
三善家が1333年の鎌倉幕府の滅亡まで、幕府の要職を勤められたのは、
朝廷・幕府の両方より信頼が厚かったことと、強力な敵対勢力がいなかった為だと考えられています。
才能があったとしても、敵対勢力があれば菅原道真のように左遷される事もあるわけです。
又、筑後地区では1226年には、星野に“調(しらべ)”がやってきて、
星野氏を名乗っていくようになります。しかし、山間地域で耕作に不適な地域であった為、
後々、穀倉地帯へ進出(妹川越【いもがわごえ】)し、1313年に浮羽に下向した、
三善氏(問注所氏)と敵対関係になっていくのです。
吉井地区に多い、“調”“樋口”“古賀”姓は星野氏の流の方々のようです。
写真は、長岩城跡地です。
朝廷・幕府の両方より信頼が厚かったことと、強力な敵対勢力がいなかった為だと考えられています。
才能があったとしても、敵対勢力があれば菅原道真のように左遷される事もあるわけです。
又、筑後地区では1226年には、星野に“調(しらべ)”がやってきて、
星野氏を名乗っていくようになります。しかし、山間地域で耕作に不適な地域であった為、
後々、穀倉地帯へ進出(妹川越【いもがわごえ】)し、1313年に浮羽に下向した、
三善氏(問注所氏)と敵対関係になっていくのです。
吉井地区に多い、“調”“樋口”“古賀”姓は星野氏の流の方々のようです。
写真は、長岩城跡地です。