時間が薬になる

最近、体罰によるしつけを法律で禁止するというニュースを見た。

体罰禁止をはっきりと法律で定めるということ。


じわっと古い記憶が蘇る。

子どもが小学四年のころ、子どもが学校での体罰を怖がるようになった。

何とかしなきゃと、私は学校に電話したが、私は手順を間違えた。

電話で校長に話したことが間違いだった。

その前に、何人かの保護者に話してみたほうが良かっただろう。

根回しもせず、体罰について要望するのは無謀だった。



校長は、保護者会で謝罪するよう担任に言った。


担任は、私が欠席した保護者会で謝罪した。

すると、その場にいた保護者たちは、謝罪の必要はないと言ったらしい。

なぜなら、多くの保護者は学級運営はうまくいっていると思っていて、

体罰反対という私の意見は異質なものと扱われた。

次の保護者会には仕事を抜けることができて、私は保護者会に出席した。

すると、その場は、私の糾弾の場となった。

私に向けられた意見は、全て、体罰は必要というもの。

いろいろと意見が出て、私と子どもは人としても否定された。

頑固な私は、体罰は良くない、冷静に殴るなんて信じられないと主張し、

場はおさまらなかった。

私は、「付き合いを避けるべき人」のレッテルを貼られたかのように、

子どもが小学校を卒業するまで孤立した。


2年以上の孤立は、深い心の傷になった。

最近、児童虐待に関連して体罰についてのニュースを見て、

心の傷が癒されたような気がする。

あの時、やり方に間違いがあったとはいえ、「体罰、止めてほしい」と言えて良かったんだと思う。


昔、正しいと言われていた価値観が、年月を経て

間違いだと言われるようになることもある。

その場を支配する価値観に合わなかった自分が、

時を経て、肯定されることもあるんだ。


・・・わたむし(妻)