筑紫野市歴史博物館

図書館の裏にある筑紫野市歴史博物館へ夫と行った。

「戦後70年 ふるさとの戦時資料展」という企画展で、筑紫野の南画家・藤瀬冠邨(ふじせ かんそん)の次男・藤瀬東文(ふじせ とうぶん)さんの一生を写真や戦地からの手紙で紹介していた。

東文さんは、昭和8(1933)年に二日市尋常高等小学校(現・二日市小学校)を卒業。福岡中学校(現・福岡高校)に入学。昭和13(1938)年に卒業。水泳が得意でした。

その後、東文は関東州大連(現・中華人民共和国 遼寧省大連市)の南満州工業専門学校に入学しました。満州国が建国され、日本からの移住者が多く、東文さんも希望に燃えて技術者になろうと満州の学校へ行ったのでしょう。

南満州工業専門学校を卒業すると、政府と満鉄が出資した同和自動車工業株式会社に入社。

しかし、技術者として活躍する期間はほとんどなく、入社二か月後に軍隊へ。

フィリピンでの作戦に参加し、激烈な戦場で頭部に砲弾破片を受けて22歳で亡くなりました。


戦地から筑紫野の家に送られた葉書が展示されていました。

内容は、自分は健康だから心配ないとか、日本の夏の暑さが涼しく思われるとか、子供時代が懐かしく思い出されるというような、淡々としたもの。検閲を受ける葉書には、戦地の辛さは書けなかったのでしょう。家族がしんぱいするようなことは一つも書かれていないのに、最後に「死亡通牒」という1枚の薄っぺらい書類が展示されていました。

希望に燃えて満州へ行った若者が、戦争のために進路を修正され、22歳という若さで亡くなってしまったことを、自分の子どもに重ねると、受け入れられないなぁと思いました。


昔は徴兵制度があったから、多くの人が戦地へ行ったわけだけど、国の為に闘うなんて、私は空しい気がする。国民の幸福を考えるなら、できるだけ人が死ななくてすむようにするのではないかな。

どうか、徴兵制度が復活しませんように・・と思いながら展示を見たのだった。


・・・わたむし(妻)