筑紫コミュニティーセンター

筑紫コミュニティーセンターに、銃撃の痕がある西鉄筑紫駅の待合所が保存されているとテレビで知り、夫と見に行った。
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コミュニティーセンターに駐車して車から出ると、かすかに土の臭いがした。近くに土を掘る作業場があるようだった。コミュニティーセンターは新しい建物。その隣の広い土地の隅に、ガラスの壁がある小さな建物があり、その中に木造の古い待合所が入れられていた。

私たちがガラス越しに覗いていると、小さな子どもを連れた若い女性と年配の夫婦がやってきた。皆、待合所を見に来た人たち。年配の夫婦は千羽鶴を持って来たと言っていた。

この小さな建物は、待合所の保存用に建てられたもののようだ。が、ガラスが反射して中が見えづらかった。ドアには鍵がかけられていた。鍵が開けられないかとコミュニティーセンターに尋ねに行った人がいた。その人が言うには、公民館が鍵を持っているから、コミュニティーセンターの人には開けられないということだった。

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千羽鶴を持って来た人は、残念と言い、その場から去った。

私たちはただ見に来ただけだったが、慰霊に訪れる人もいるのだと知った。


広報筑紫野には、西鉄筑紫駅銃撃事件というタイトルで事件が紹介されている。

「昭和20(1945)年8月8日、11時30分過ぎ、筑紫駅に近づいたほぼ満員200余人の乗客を乗せた2両編成の下り列車が、突然、飛来した米軍機により銃撃を受けました。数回にわたる銃撃を受けた数分後、南方から進行してきた上り列車(乗客20人)にも銃撃を加えました。これにより、両列車で即死64人、負傷者100余人の甚大な犠牲者が出ました。」

そして、広報筑紫野には、旧西鉄筑紫駅近くの九州飛行機株式会社の諸田疎開工場に勤務していた人の目撃談も書かれていた。

この人は、本社から西鉄電車で機械部品が送られてくるのを筑紫駅へ取りに行ったときに事件を目撃している。

「駅まで約150メートルの所まで行ったとき、福岡方面から下り電車が筑紫駅に到着しました。その時、上空から飛行機2機が急降下してきて、到着した2両編成の電車めがけて猛烈な爆音と機銃掃射を浴びせて、福岡方面に線路伝いに飛び去りました。しばらくすると今度は反対側から機銃掃射を連続して撃ちながら飛んできました。私は通過する際に飛行機を見上げましたが、米兵の顔が見えるほどの超低空飛行でした。石ころを投げて打ち落としたい気持ちでした。上り電車が駅に入ってきて、今度は上り、下りの電車をめがけて銃撃を始め、結局往復2回の銃撃でした。」

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何の目的でアメリカ軍機は西鉄電車を銃撃したのだろう?この翌日には長崎に原爆が投下されたわけだが、終戦間際に多くの一般市民が命を落としたことを思うと、戦いの相手方は、日本人を皆殺しにしようとしていたのかと思ってしまう。

西日本新聞のページで空襲について読むと、昭和20年8月11日には久留米大空襲。

戦争体験を語ることのできる人は高齢だ。今のうちに話を聞いて、子どもや孫の世代へ戦争経験を語り継がなくてはと思った。

・・・わたむし(妻)