長岩城史跡案内所(48)-3(最終回)

イメージ 1

イメージ 2

 今回の平川館長の鎌倉探訪では、“問注所跡”にも立ち寄られました。

ここで問注所について少し紹介したいと思います。

源頼朝が設立した鎌倉幕府は、

政所(将軍家務・一般政務)、侍所(軍事・警察)、問注所(訴訟・裁判)で組織されていました。

問注所とは政所の職員と分担して、訴訟を裁判する役所のことであります。

又、問注とは訴訟の事故を推問して、簿書に注記する意味であるそうです。

但しこの役所では、おもに領地などの境界紛争や、貸借に関する訴訟を扱っていたのだそうです。

問注所の設置場所は、頼朝の時には宮中の東廊に設けられ、

頼家の時にはこれを廊外に出したのだそうです。

職員には、執事と寄人がおりました。

執事とは政所の執事と同様の重職であるから、訴訟の裁判ばかりではなく、

会議にも出席し政治を議論していたのだそうです。

三善康信がこの職を勤めて以来、後にその子孫の町野・大田両氏の子孫が世襲していくのです。

執事が事故や急用の際には補佐に執事代があたって、その職を代行していたそうです。

寄人は問注奉行や問注所公人と呼ばれ、

雑務を行い訴訟人の言葉を注記する書記の役目をしていたのだそうです。

写真は鎌倉にある“問注所跡”の記念碑です。