長岩城史跡案内所(27)
三善康信(みよしやすのぶ)が、鎌倉幕府より問注所(訴訟・裁判を行なう所)に就任し、
生葉郡に15ヶ村300町を賜った。
その15ヶ村は平川館長が、戦後の農地改革以前まで所有されていた
田畑のその位置と、一致していたということであった。
三善康信の嫡子は“問注所”と称し、他の庶子は“町野”・“平川”・“三善”を名乗っていく。
その問注所氏の流れを引く平川館長も、15ヶ村の一部を近年まで所有されていたという訳である。
平川館長の住宅や蔵があったのは、“本村バス停”附近であったが、
田畑が10km~20kmも離れた所に、点在していた事が不思議でならなかったらしいが、
最近やっとその理由が、解明できたということであった。
画像は、15ヶ村の行政区画の変遷である。
生葉郡に15ヶ村300町を賜った。
その15ヶ村は平川館長が、戦後の農地改革以前まで所有されていた
田畑のその位置と、一致していたということであった。
三善康信の嫡子は“問注所”と称し、他の庶子は“町野”・“平川”・“三善”を名乗っていく。
その問注所氏の流れを引く平川館長も、15ヶ村の一部を近年まで所有されていたという訳である。
平川館長の住宅や蔵があったのは、“本村バス停”附近であったが、
田畑が10km~20kmも離れた所に、点在していた事が不思議でならなかったらしいが、
最近やっとその理由が、解明できたということであった。
画像は、15ヶ村の行政区画の変遷である。