バス停で高齢者を見て
いつものように家の近くで用事を済ませ帰宅していると、
いつもは車で出かけている近所の高齢者がバス停にいるのを見かけた。
車でなく、バスで外出?
その人の家の車庫に車はない。
車を手放した?
もしそうなら、良いなあと思いながら帰宅した。
私は大抵の用事は徒歩と公共交通機関の利用で済ませている。
別に不自由とは思わない。
けれども、周囲の人々を見ていると、
買い物、保育所の送迎、通院、通勤、通学などで
徒歩の人より車利用の人の方が多いと感じる。
「車に乗らない人」は少数派だと感じる。
何十年も車を運転して移動してきた人が
高齢になって車を手放すと、ものすごく不便に感じるのではなかろうか。
バス停や駅まで歩かねばならんし、
時刻表通りに運行されていても、
待ち時間が発生する。
私が車に乗るのを止めて、不便に思ったのは待ち時間があることだった。
車て移動すれば5分の距離を、バス移動で徒歩や待ちの時間も含めたら15分はかかる。
それ以上かもしれん。
そして、高齢でもないのに運転を止めたことに共感ももらえなかった。
タクシーに乗って雑談で運転についての話になり、「運転を止めるなんて もったいない。週に1回くらい運転の練習をしていたほうがいいですよ」とタクシー運転手からアドバイスされたことがある。
運転をするのが普通、しないのは普通でないという常識があるんだろう。
高齢でないのに運転を止めるには、
事情があるのだが、
「普通」「当たり前」から外れることを決めた事情に、関心を向けられることはない。
多くの人が、「普通」「当たり前」の意識を持ち続け、自分が「普通」「当たり前」から外れる日をむかえるなんて、
想像しないだろう。
それに、生活上に車は便利さをもたらしてくれる。
運転を止めると生活は不便になる。
だから、車の運転を止めたら、大抵の人が喪失感を味わうだろう。
私は、バス停にいる近所の高齢者を見て、バス移動は不便だと思うかなあと想像した。
不便だけど、安全だよと言ってあげたい。
運転を止めて失うものは大きいけれど、
交通事故を起こす心配はなくなるのだから、
安全と安心が得られる。
・・・わたむし(妻)