ありがとう

実家の飼い犬タロウが死んでしまい、ぽっきりと木の枝が折れたような喪失感がある。寂しい。

私は子どものころから犬が怖くて、茶色いものを見ただけで怯えるほどだった。タロウは犬だから、犬好きな人のように密接にできなかったが、一緒に散歩したり頭を撫ぜたりすることができた。

怖くない可愛い犬は、タロウが初めて。

愛情でつながっていたタロウが死んだから、心の木の枝が折れてしまったのだな。

タロウは、大切な犬だった。だから、居なくなって寂しい。


夜、眠ろうとしていると、ふと真逆のイメージが浮かんだ。

「ここから居なくなれ」「消えろ」と言う人。「言いにくいことを言ってくれてありがとう」と言う人。

プールで泳いでいたら、「私たちが泳ぐから向こうに行って」と言う人。

「頑張ってくださいね」と言っていた一か月後、「来年度の契約更新はしません」と言った上司。などなど・・・。

私を邪魔者扱いする人が、この世にはいる。居なくなって寂しいと思うんじゃなくて、居なくなれと望む人たちだ。

その人たちは、寂しくはなく、清々しているのだろう。

こんなイメージの後に、タロウの顔が見えた。もう居ないんだなぁと寂しく思った。


愛情の反対は無関心だと言う人がいる。愛情の反対は無関心なんだろうか?

敵意という感情も憎しみも、愛情の反対ではないかと思う。


そういえば、福岡市立美術館の常設展示に、靴の絵がある。

大きな画面に、点々と等間隔で靴が片方ずつ並べられている絵。それぞれの靴は、どれも同じではない。

一つ一つの靴に愛着が感じられる絵だ。

そうだなぁ・・・。履けなくなった靴を簡単に捨てないで飾っている人もいるんだろう。愛着ある物を手放す前に、写真を撮る人もいると聞いたことがある。

片づけコンサルタントのこんまり先生は、「ありがとう」と言って捨てるのだったなぁ。


「契約更新しません」と首を斬られたとき、「これまで、ありがとう」と言われたとしたら、少しはマシな気持ちになったかもしれないなぁ。


それにしても、タロウが居なくなって寂しい。

もしもタロウが言葉を理解するならば、「タロウと関わることができて、楽しかったよ。ありがとう」と言いたいな。

「ありがとう」


・・・わたむし(妻)