ピアノとハラスメント
何のためにピアノのレッスンを受け始めたんだろう?
・・・
・・・
「何のために」という言葉が私の思考に、お決まりのように入っている。
そもそも、ピアノは大学の必須科目だった。単位をとるために義務として身につけたものだ。
学生数人に先生が一人ついていた。
今思うと、至れり尽くせりの贅沢なレッスン体制だ。
私が行った大学は、音楽に力を入れていた。声楽も鍛えられた。
専門は音楽ではないけれども、全くピアノや声楽に無縁だった者を技能の面で引き上げてくれた。
そこは感謝すべきことだろう。
ピアノが弾けるようになるのは楽しいことだったけれど、
あるとき、レッスンで楽しくない出来事があった。
私は、毎日、大学のピアノ練習室で1時間ほど練習していた。
朝、又は夕方、欠かさず練習していた。
多分、私は練習を楽しんでいたんだろう。楽しくないなら毎日しない。
レッスンで先生から厳しく間違いを指摘されることがなかった。
たまたま、あるレッスンの日、私以外の人たちが練習不足だったことがあった。
先生は苛立っていたのか、練習不足の人たちを練習するようにと厳しく叱った。
叱責の言葉の中に、十分に練習した私が引き合いに出され、なんとも居心地の悪い気持ちになった。
たったそれだけの出来事だが、自分に注がれた仲間の視線が怖かった。
全員が同じように叱られたのならば、何事もなかったのかもしれない。私は浮いてしまったと感じた。
当時、大学には多くのピアノの先生がいた。多くの非常勤講師がいた。
学生は能力別でグループ分けされ、
私は、初心者のグループに。
先生は、先輩から厳しいと評判だったが、実際には思っていたほど怖くはなく、苛立ちをあまり出さない人だった。
私は、一度だけの先生の苛立ちに怯えてしまったのかもしれない。
自分だけ厳しい叱責を受けずに、グループの中で浮いてしまったと感じたのも辛かった。
他のグループの話を聞くと、先生の苛立ちは、私がレッスンで受けたものよりも、もっと過激だった。
弾いている途中で「もう弾かなくていい」と拒絶されたり、
ピアノの蓋を閉められて、反射的に手を引っこめて難を逃れたという話もあった。
「あなたたちは苦労を知らないから。」というなじり言葉もあった。
私は震え上がるような気持ちでそれらの話を聞いた。
私の先生は、そのような人ではなかった。一度は怖かったけれども。
学生のころ、ピアノの先生の話題は、面白おかしく自分の先生の苛立ち具合を披露するものだったが、
私は笑いながらも怯えていた。
体育会系でしごきを経験した人には、普通の笑い話なのかもしれない。
当時、私は音楽の先生たちをとても怖いと思っていたようで、グループでのピアノレッスンとは別の音楽の授業で、先生の前でピアノの弾いたときに、
緊張で手ががたがたと震えた。
キラキラ星という簡単な曲なのに、手が震えて、「あなたの手もキラキラとまたたいていますよ」と言われたのを思い出す。
手元を注目され、注意深く聞かれていると思うと、緊張がマックスになったのだろう。
簡単な「キラキラ星」が悲惨な状態になり、先生にも仲間にも失笑されたのは、とてもショックで心の傷になっている。
練習では大丈夫なのに、人前でピアノを弾くことが大変な問題だった。
それでも、ピアノの実技試験を通過できた。不思議なことに、試験に関係する記憶がすっぽりとなくなっている。
また、仕事でも人前でピアノを弾かなくてはならなくて、手の震えに困った。
音楽の授業では問題なく弾けるのに、学校行事で弾かなくてはならないときに、
手の振えに困っていた。
今受けているレッスンで、たまに手が震えてしまうことがあるけれど、
そんなとき、先生が「大丈夫、弾けていますよ」と声をかけてくれる。
私は、「間違えたらどうしよう」と思うときに手が震えるようだ。
その度に、「大丈夫ですよ」と励まされている。
次第に、「間違えたらどうしよう」と思わないで、弾くことに集中できるようになってきた。
「元々は、もっと弾けていたのですね。」と言われた。
今思うと、昔のピアノの先生たちは、叱り癖という悪い癖を身につけてしまっていたのかもしれない。
言葉でなじったり、拒絶したりしても、ピアノが弾けるようにはならない。
最近ニュースなどで見聞きするスポーツでの体罰と同じ問題があったのだな。
必須科目だから、学生の自分はレッスンを放棄できない。
レッスンでは精神的な圧力、ハラスメントを受けていた。
レッスンを受けなければ必須科目の単位がとれないし、レッスンを受ければハラスメントを受ける・・・という二重拘束を受けていたのだな。
しかし、かすかに、ピアノが弾けるようになることの楽しみを感じていたから、
卒業してからも、仕事でも、仕事を辞めても、ピアノは身近なものとしてあるんだ。
ピアノに罪はない。居心地の悪さや怖さを自分にもたらしたのは人間なのだ。
ヤマハの広告を見て、レッスンを受ける気になったのは、
ピアノとの出会い直しをしたいという思いがあったからなのかもしれない。
私は、ピアノや音楽が嫌いになったのではなくて、
ハラスメントやその場の雰囲気が嫌いなのだ。
ヤマハの「大人のピアノレッスン」は、先生が連弾して音楽の楽しさを味わえる内容だ。
過去に受けた「責められるレッスン」とは全然違うのだ。
何のためにピアノのレッスンを受け始めたんだろう?
学生の頃は、必須科目の単位をとるため。
今は、学生の頃に感じたであろう「ピアノを弾く楽しさ」を感じて育てるため。
・・・わたむし(妻)
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「何のために」という言葉が私の思考に、お決まりのように入っている。
そもそも、ピアノは大学の必須科目だった。単位をとるために義務として身につけたものだ。
学生数人に先生が一人ついていた。
今思うと、至れり尽くせりの贅沢なレッスン体制だ。
私が行った大学は、音楽に力を入れていた。声楽も鍛えられた。
専門は音楽ではないけれども、全くピアノや声楽に無縁だった者を技能の面で引き上げてくれた。
そこは感謝すべきことだろう。
ピアノが弾けるようになるのは楽しいことだったけれど、
あるとき、レッスンで楽しくない出来事があった。
私は、毎日、大学のピアノ練習室で1時間ほど練習していた。
朝、又は夕方、欠かさず練習していた。
多分、私は練習を楽しんでいたんだろう。楽しくないなら毎日しない。
レッスンで先生から厳しく間違いを指摘されることがなかった。
たまたま、あるレッスンの日、私以外の人たちが練習不足だったことがあった。
先生は苛立っていたのか、練習不足の人たちを練習するようにと厳しく叱った。
叱責の言葉の中に、十分に練習した私が引き合いに出され、なんとも居心地の悪い気持ちになった。
たったそれだけの出来事だが、自分に注がれた仲間の視線が怖かった。
全員が同じように叱られたのならば、何事もなかったのかもしれない。私は浮いてしまったと感じた。
当時、大学には多くのピアノの先生がいた。多くの非常勤講師がいた。
学生は能力別でグループ分けされ、
私は、初心者のグループに。
先生は、先輩から厳しいと評判だったが、実際には思っていたほど怖くはなく、苛立ちをあまり出さない人だった。
私は、一度だけの先生の苛立ちに怯えてしまったのかもしれない。
自分だけ厳しい叱責を受けずに、グループの中で浮いてしまったと感じたのも辛かった。
他のグループの話を聞くと、先生の苛立ちは、私がレッスンで受けたものよりも、もっと過激だった。
弾いている途中で「もう弾かなくていい」と拒絶されたり、
ピアノの蓋を閉められて、反射的に手を引っこめて難を逃れたという話もあった。
「あなたたちは苦労を知らないから。」というなじり言葉もあった。
私は震え上がるような気持ちでそれらの話を聞いた。
私の先生は、そのような人ではなかった。一度は怖かったけれども。
学生のころ、ピアノの先生の話題は、面白おかしく自分の先生の苛立ち具合を披露するものだったが、
私は笑いながらも怯えていた。
体育会系でしごきを経験した人には、普通の笑い話なのかもしれない。
当時、私は音楽の先生たちをとても怖いと思っていたようで、グループでのピアノレッスンとは別の音楽の授業で、先生の前でピアノの弾いたときに、
緊張で手ががたがたと震えた。
キラキラ星という簡単な曲なのに、手が震えて、「あなたの手もキラキラとまたたいていますよ」と言われたのを思い出す。
手元を注目され、注意深く聞かれていると思うと、緊張がマックスになったのだろう。
簡単な「キラキラ星」が悲惨な状態になり、先生にも仲間にも失笑されたのは、とてもショックで心の傷になっている。
練習では大丈夫なのに、人前でピアノを弾くことが大変な問題だった。
それでも、ピアノの実技試験を通過できた。不思議なことに、試験に関係する記憶がすっぽりとなくなっている。
また、仕事でも人前でピアノを弾かなくてはならなくて、手の震えに困った。
音楽の授業では問題なく弾けるのに、学校行事で弾かなくてはならないときに、
手の振えに困っていた。
今受けているレッスンで、たまに手が震えてしまうことがあるけれど、
そんなとき、先生が「大丈夫、弾けていますよ」と声をかけてくれる。
私は、「間違えたらどうしよう」と思うときに手が震えるようだ。
その度に、「大丈夫ですよ」と励まされている。
次第に、「間違えたらどうしよう」と思わないで、弾くことに集中できるようになってきた。
「元々は、もっと弾けていたのですね。」と言われた。
今思うと、昔のピアノの先生たちは、叱り癖という悪い癖を身につけてしまっていたのかもしれない。
言葉でなじったり、拒絶したりしても、ピアノが弾けるようにはならない。
最近ニュースなどで見聞きするスポーツでの体罰と同じ問題があったのだな。
必須科目だから、学生の自分はレッスンを放棄できない。
レッスンでは精神的な圧力、ハラスメントを受けていた。
レッスンを受けなければ必須科目の単位がとれないし、レッスンを受ければハラスメントを受ける・・・という二重拘束を受けていたのだな。
しかし、かすかに、ピアノが弾けるようになることの楽しみを感じていたから、
卒業してからも、仕事でも、仕事を辞めても、ピアノは身近なものとしてあるんだ。
ピアノに罪はない。居心地の悪さや怖さを自分にもたらしたのは人間なのだ。
ヤマハの広告を見て、レッスンを受ける気になったのは、
ピアノとの出会い直しをしたいという思いがあったからなのかもしれない。
私は、ピアノや音楽が嫌いになったのではなくて、
ハラスメントやその場の雰囲気が嫌いなのだ。
ヤマハの「大人のピアノレッスン」は、先生が連弾して音楽の楽しさを味わえる内容だ。
過去に受けた「責められるレッスン」とは全然違うのだ。
何のためにピアノのレッスンを受け始めたんだろう?
学生の頃は、必須科目の単位をとるため。
今は、学生の頃に感じたであろう「ピアノを弾く楽しさ」を感じて育てるため。
・・・わたむし(妻)