市民というくくりの中のヨソモノ

昨年12月、「うきはアリーナ」のことで

私は水泳教室で仲良くなった人に「話しませんか」と自分から誘った。

5人ほどが集まり話した。

私は、「私も自分にできることをします。」と言った。

すると、「あなた、何かやっているの?」という突込みが入った。

私は、浮羽町に生まれて浮羽町で育ったが、

行政区に入ってなくて、

婦人会にも入ってないし社会福祉協議会の会員でもなく、

職場にも属していない。

住民票はうきは市に置いている。

私のように行政区に入っていないものには、防災無線もなく

近隣の方々との付き合いもない。

可燃ゴミは回収してもらえるが、

不燃ゴミは地域の回収に出すことができなくて、

スーパーのリサイクルボックスに出したり、大野城市に出したりしている。

我が家には、大野城市のゴミ袋がある。



私は、うきは市民であるけれども、「話しましょう」と呼びかけても集まった人たちと

立っている所が違うように感じた。

私は、市が「行政区に入らない人」と問題視する存在だ。


「話しましょう」と呼びかけておいて、呼びかけた私が最も市から遠い者であるように感じた。

だから、「あなた、何かやっているの?」と言われて、

「何もしていません。」とか、「ブログに調べたことを書きます。」と答えて

「地域コミュニティーに属さないもの」というカテゴリーに自分を入れてしまった。



区の好意によって私の子どもたちは子供会に参加した。

小中学校での行事には行政区の一員として参加し、子供会の役員を経験した。

他所の行政区では、区に属さないと学校の運動会では、テントに入れなくて

体育館で昼ご飯を食べる。私たちは、そのような寂しい思いをしたことがない。

子どもたちが高校生になったら、子ども会と縁がなくなり、

私たちは、ご近所との接点が少なくなった。

子どもがいなかったら、こんなに接点がないのだ。


一度市外に出て、浮羽に戻ってきてみると、よそ者になっているようだ。

福岡では味わわなかった感覚だ。





選挙で投票するときに、私は一票を投じる。

だが、組織で動く人の一票は、一票であると同時に複数票の威力を持っている。

私は、「うきはアリーナ」のことで話した時に、「威力を持つ人」を目の当りにしたのだ・・と思った。


威力を持つ人は私にはできないことをしているようだ。何をしているか知りたく思うが、少し怖さも感じる。

今日も水泳教室を休んでしまった。今度は行こう。そして、何か動きがあるか聞いてみよう。