長岩城史跡案内所(41)-2(最終回)
今年のJRウオークは、シャトルバスでかわせみ広場へ行きそれからスタート、棚田を巡り、
ゴールは諏訪神社でそれからシャトルバスで駅までと、今までと少しコースが変わりました。
その為、史跡案内所の前を歩いて通るのは登りの時の一回となったので、
来館者は例年より少なかったそうです。
それでも、所々に長岩城跡の案内看板を設置した効果があったのか、
日を改めて来館される歴史好きな方が数名いらっしゃったそうです。
又、“平川文書”についても色々伺ってきました。
田畑・山を沢山所有していた為、裕福であった平川本家は太宰府天満宮参拝が盛んだった頃、
天満宮に様々なものを寄進したり、行事に協力したりして一定の地位を確立していったのだそうです。
その後、門の開閉を任せられる役を仰せつかり、苗字も“菅原”の名を賜ったそうです。
この平川宗家の菅原家は、今は田籠地区には残ってはおられないそうです。
平川館長所有の“平川文書”は、まだ田籠地区に宗家がおられた昭和34年に、
平川館長の父の故隆文氏が照合・確認されているものだそうです。
以前、紹介したものが一部誤りがありましので、ここで訂正とお詫びをいたします。
写真は“平川文書”PART 2 PART 3です。
ゴールは諏訪神社でそれからシャトルバスで駅までと、今までと少しコースが変わりました。
その為、史跡案内所の前を歩いて通るのは登りの時の一回となったので、
来館者は例年より少なかったそうです。
それでも、所々に長岩城跡の案内看板を設置した効果があったのか、
日を改めて来館される歴史好きな方が数名いらっしゃったそうです。
又、“平川文書”についても色々伺ってきました。
田畑・山を沢山所有していた為、裕福であった平川本家は太宰府天満宮参拝が盛んだった頃、
天満宮に様々なものを寄進したり、行事に協力したりして一定の地位を確立していったのだそうです。
その後、門の開閉を任せられる役を仰せつかり、苗字も“菅原”の名を賜ったそうです。
この平川宗家の菅原家は、今は田籠地区には残ってはおられないそうです。
平川館長所有の“平川文書”は、まだ田籠地区に宗家がおられた昭和34年に、
平川館長の父の故隆文氏が照合・確認されているものだそうです。
以前、紹介したものが一部誤りがありましので、ここで訂正とお詫びをいたします。
写真は“平川文書”PART 2 PART 3です。