個人と社会とのズレ
「時効」について、ふと思った。
誰かが誰かを深く傷つけるという罪を犯す。
例えば、それがいじめであったり、殺人という重い罪だったり。
人を傷つけても、罪を犯した人は時効によって罪を洗い流される。
一定の時間が経過したら、普通に社会生活を送ることができる。
片や、その被害者には、時効はなく、
傷ついたままであったり、人生を失い回復しないという「死」の状態だ。
被害者という個人には時効はない。
罪が重ければ重いほど、個人と社会とのズレは大きい。
ならば、そのズレを埋め合わせる必要があるはずだ。
謝罪や償いが必要だ。
けれども、長い時間が経つと、時間という水で清められたかのように、
罪は洗い流され、償う必要を感じなくなるようだ。
同じ罪を犯す人を少なくするという社会にしようと行動するのは、
その罪を犯した人ではなく、被害感を負った被害者である場合がほとんどなのではないだろうか。
時効のない痛みを抱えた被害者が、痛みを癒すために社会に働きかけている。
けれども、痛みを言葉で伝承するのは困難であり、
例えば、原爆で被爆した方が、若者から「死にぞこない」と暴言を受けるような
個人と社会とのズレがある。
・・わたむし(妻)