2009-07-01から1ヶ月間の記事一覧

御花⑧

御花を訪れて残念だった事は、問注所氏に関しての、資料が展示されてなかった事である。 文禄四年(1595)大友家改易後、慶長三年(1598)十二月に、 問注所政連は所領を失って、長岩城を開城した。 関が原の合戦を経て、その後立花宗茂が改易となり、 …

太宰府市にある道標石

太宰府市県道R112(旧R3)“関屋”の信号より西へ50Mのところにある。 二基あり、 天満宮 東 従是 二十五丁 享和二年 是ヨリひがしさいふ参拝道 と書いてある。 一基は、元禄四年(1691)のものであり、 その頃よりさいふ詣りが、盛んであったということである。

御花⑦

浮羽町史によれば、豊臣秀吉の征韓の役の時、問注所統景は、手勢800余騎を率い、 毛利家の先隊に従い渡海し、明兵としばしば戦い武功をたてた。 文禄二年(1593)九月二日赤国牧司の城を攻めたが、 明の劉綖(りゅうえん)大軍をもって来援したので、毛利…

御花⑥

松涛園の横に、立花家伝来の大名道具の展示をした、 御花資料館がある。http://www.ohana.co.jp/kura.html そこには、藩祖立花宗茂、以来400年以上にわたって、 受け継がれてきた、収蔵品約3000点が継承されているそうだ。 今年1月には、福岡県立美術館の特…

久留米市大橋町にある郡境石

R210“大橋三差路”の信号を北へ500M、“大橋歴史公園”を過ぎて、 “大橋”を渡りすぐ右折して200M、右側の巨瀬川堤防敷にある。 東 竹野郡 西 山本郡 と書いてある。 他のものと比べて、とても小さい字である。 江戸時代、久留米から日田へ向かう日田街道は二本…

御花⑤

写真は松涛園に面した、大広間廊下の鴨居に掛けられている、 「金箔押桃形兜(きんぱくおしももなりかぶと)」である。 桃の形をかたどった兜は、戦国時代に多く用いられた形であるが、 立花家では鉄に金箔をほどこし、239頭が今でも残っているという事であ…

御花④

立花宗茂は、文禄の役で朝鮮へ出兵、激戦のあった碧蹄館の戦いでは、 一番隊として明の大軍を破り、その名をとどろかせた。 秀吉没後の関が原の合戦では、秀吉の忠義のため、石田三成率いる西軍に属した。 写真は、樹齢600年といはれている松ノ木と、そて…

うきは市にある郡境石

R210田主丸鷹取“樋ノ口”の交差点より、北東へ100Mの所にある。 東 生葉郡 分界 西 竹野郡 と書いてある。 うきは市教育委員会から頂いた資料によると、うきは市内に郡境石は全部で5基あるらしいが、 現在、その場所が確認されているのは、ここのものと、 千…

御花③

立花道雪と仁志との間には、一人娘の“誾千代(ぎんちよ)”がいた。 この“誾千代(ぎんちよ)”と四王寺山の岩屋城城主、高橋紹運(たかはしじょううん) の長男“千熊丸”〔後の総虎(むねとら)〕とは、後々夫婦となっていく。 後の、立花宗茂である。 写真は、柳川川…