2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧

長岩城史跡案内所(23)

今日、長岩城史跡案内所の平川館長の元へ訪れてきた。 約二時間程様々な事を話した。 問注所家が、問注所を姓として名のれたのは、鎌倉幕府が1333年に滅亡して、 裁判所の業務としての“問注所”が終止されたからだ、 だろうと言うような事を話した。 又、…

杷木町にある国境石③

R386沿い杷木町と日田市との県境付近にある、阿蘇神社の入り口付近にある。 従是 西北 筑前領 谷川半境 と書いてある。 豊後国と筑前国の境の国境石である。 この石は、“杷木町にある国境石①”と同じ内容が書いてある。 書体も似ているようだが、同じ人の作で…

御花②

問注所家と立花家の両家のつながりは、 1567年におきた、二度目の侍島の合戦 (http://blogs.yahoo.co.jp/watamushi5/41799120.html) で戦死した、鑑豊の娘“仁志”と、戸次鑑連(べっきあきつら 後の立花道雪) との再婚によって、より深い縁となっていった。…

御花①

柳川御花にいって来た。 立花藩(筑後十三万石)は問注所政連が、 改易の後、柳河藩士となって、 仕えたところである。 順次紹介する。

長岩城史跡案内所(22)

画像は、鎌倉幕府最後の閣僚名簿である。 問注所執事に三善貞連が名を連ねている。 三善貞連は第十代・十二代に問注所執事であった。 1333年は“いちみさんざん北条氏の滅亡”で、 鎌倉幕府が終焉した年である。 尚、今回史跡案内所は6月20日~7月9日…

杷木町にある国境石②

朝倉市の道の駅、バサロの東隣の民間会社の敷地内にある国境石。 志波村抱 とかいてあるが、あとは読めない。 控石であると考えてあるらしい。

杷木町にある国境石①

杷木I.C.入り口の西側、R386沿い旧こども未来館はきの敷地内にある。 従是 西北 筑前領 谷川半境 と書いてある。 豊後国と筑前国の境の国境石である。 “谷川”と書いてあるのは、境谷川ということらしいが、 “半”と書いてあるのは、川の中央が境という事なの…

“名将の采配”・“熱中時間”

T.V.番組の紹介をします。 NHK総合の、 “名将の采配”(火曜日24:10~24:45http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20081008_doc.html)と “熱中時間”(水曜日22:45~23:00http://www.nhk.or.jp/nj/index.html)という番組である。 “名将の采配”の前回は、毛利元就V…

うきは市にある県界標

R210沿い、うきは市と日田市の境、日田市に向かって右側にある県界標。 郡境石・国境石ではなく、比較的新しく昭和 3年 3月のものである。 至 日田町 九粁 百二十四米突 至 耶馬溪・羅漢寺 五十二粁四百七十八米突 至 中津町 六十二粁五百四十九米突 至 吉井…

長岩城史跡案内所(21)

問注所氏の先祖が、編纂に関わっていた御成敗式目は、 全文五十一条で構成されているそうだ。 この五十一条というのは、或る説によれば、 聖徳太子の“十七ヶ条憲法”の三倍に編成したと考えられているそうである。 17条 x 3倍 = 51条 というわけだ。 大…