2008-07-01から1ヶ月間の記事一覧

侍島の合戦⑦(最終回)

“鑑豊墓印”より南西に500mの所にある、十三塚。 ‘筑紫家覚書’によると、 ‘豊後勢、散々に破軍し、逃げるを追い討ちにして、首数千三百七拾三討ち取り、 其上、侍大将星野・問注所を討ち取り~右の首数拾三に分、針摺ノ山上に埋ける。’とある。 敗れ去った、…

侍島の合戦⑥

‘浮羽町史’によれば、侍島の合戦で戦死した、頭首・問注所鑑豊の恩賞として、 問注所家は、三井郡の一部を府内より加増された。 ところで、東京の平川さんから頂いた情報によると、 この“鑑豊墓印”には、柳川の問注所さんも時々訪れて、 線香をあげてあると…

侍島の合戦⑤

侍島の合戦で戦死した、問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)の祠。 筑紫野市下見、市立下見保育所より西へ100m程の、納骨堂入口付近にある。 近隣の方々からも、手厚く守られているようである。 横にある碑には、文政8年(1825)と書いてある。 没後300年程経…

山家宿の追分石

右 肥前 太宰府・長崎 原田 左 肥後 久留米・柳川 松崎 と書いてある。 元々、JR筑前山家駅の北西500mのところに、あったと考えられている。 今は、‘ふるさと館ちくしの’に保存されているが、 そこに来る前は、農家の倉庫の基礎石として使用されていたらしい…

元寇資料館⑤

矢田一嘯(やだいっしょう)の‘蒙古襲来絵図’。 福岡県立美術館にて、H17.2.5~3.13の期間に出展された。 その時の出品は、元寇資料館や本佛寺からの物が多かったようだ。 これらの作品は、明治42年頃に書かれたものであるが、 今、見てきたかのように、生々し…

侍島の合戦④

侍島の合戦、再び起こる! 五ヶ山城の筑紫広門(ちくしひろかど:惟門の子)は、 古処山城の秋月種実(あきづきたねざね)と共に、再び大友義鎮(おおともよししげ:後の大友宗麟)に 反旗を翻した。 問注所鑑豊(もんちゅうじょあきとよ)はこのことを、いち早く府…

馬市の国境石

小郡I.C.より北へ五分の所にある。 従是 北 筑前国 従是 南 筑後国 と書いてある。 二つの国境石が、競い合うように建っており、筑前側のものは 二川相近(ふたがわすけちか)の書である。 アマンディの進入口の付近にある国境石(三国境石③)と、 同じ筆跡であ…

元寇資料館④

元軍の兜と鐙(あぶみ)。 鐙とは、鞍(くら)の付属品の一部で、乗馬した時、足先を引っ掛けるところ。 兜の遺品例は鎧よりも多い。当時、討ち取った相手の甲冑を、武功の証として 各地の寺社に奉納する事が流行していた。 しかし、収納場所の確保や保存のし易…

侍島の合戦③

この敗戦の後、大友義鎮(おおともよししげ・後の大友宗麟)は将軍足利義輝から、 九州探題職に任ぜられ、北部九州を支配する守護大名となっていく。 一方、侍島の合戦で勝利した筑紫惟門(ちくしこれかど)は、陣容を立て直した大友勢の攻勢にあい、 籠城で対抗…

元寇資料館③

写真は、元軍兵士の戎衣(軍服)と音で軍勢を指揮した銅鑼。 布裏の薄い鉄板で身を守る戎衣は、鎌倉武士の大鎧に比べて、 運動性に優れ集団戦法向きであった。 鎌倉武士が、一騎討ちを基本としていたのに対して、 蒙古軍は集団戦法。 一騎で出て行ったところを…

秋月街道④(最終回)

旧八丁越にある‘おおよこい茶店’と‘大日如来’。 ‘よこう’とは筑豊弁?で休憩するの意味。 大力側から秋月側へ向かう時、‘おおよこい茶店’は絶妙な位置にある。 水場も近い為、多くの旅人が、ここでよこうたのだろう。

旧八丁越にある道標石

秋月街道沿いにある道標石。 左 山 道 と書いてある。 直進は秋月街道である為、幹線道路であるが、 左の道は山道で田舎道であったという訳か? 現在では左の山道を進む事は、荒れていそうであり、勇気が要りそうだ。 道の先がどのようになっているのか、知…

秋月街道③

旧八丁越に挑戦してきた。 am6:30 R322古処山林道入り口より少し下った所にある、秋月街道の看板をスタート。 am7:00 石仏・祠が何体もある霊験あらたかな所。旅の安全祈願の為、設置されたのだろうか? am7:30 旧八丁越の山頂に到着。旧道は林道によって破…

侍島の合戦②

大友義鎮(おおともよししげ)は、大友方から毛利元就側に寝返った反逆者、筑紫惟門を征伐しようと、 総大将佐藤刑部丞(さとうぎょうぶのじょう)のもと、肥前の犬塚尚家(いぬづかひさいえ)、 筑後の星野鑑泰(ほしのあきやす)、問注所鑑晴(もんちゅうじょあきは…

三国境石④

三国境石の北側、国道3号線のポケット・パークの中にある。 従是 東筑前國 従是 西肥前國対州領 と書いてある。 二つの国境石が背中合わせに立っている。 本来、国境石の両サイドにある石との延長線が国境だったそうである。 車の通りが多い所であるが、あ…

元寇資料館②

文永の役(1274)・弘安の役(1281)の資料が展示してある。 学生時代には文永の役の年号を、‘とうになし元の船影’と語呂合わせで覚えたなぁ・・・ 写真は元軍壷と河口杭である。 河口杭は弘安の役の際、元船の進入を防ぐ為に、 河口に打ち込まれたものであると…